建築家紹介
Architect
Introduction
永木 靖久
神戸大学大学院工学研究科を修了後、建築家毛綱毅曠氏に師事、
現在オスモ&エーデル株式会社ハウジング事業部設計部長。
ドイツの現代住宅を日々研究し、機能的でありながら、
デザインと高度な温熱環境を両立した「美しい省エネ住宅」の設計を行う。
encounter
建築との出会いについて
覚えているいちばん古い記憶はおそらく小学生のときに家にあった本です。
ルーマー・ゴッテンの「人形の家」です。
この本の裏表紙あたりに作中の人形の家の断面図のようなものが載っていて、その絵がどういうわけかすごく好きで、飽きずに眺めていたことを覚えています。
映画のなかの建築でいちばん古い記憶は中学生のときに映画館でみた「フラッシュダンス」です。
主人公アレックスは倉庫を改造した家に犬といっしょに住んでいるのですが、その家が格好よくて2回連続で見ました。(当時はそんなことが可能でした)
家というより倉庫そのもので、そこにキッチンとバスとベッドといくつかの家具を持ち込んだだけのものでその自由さがとても魅力的でした。
ただそのときは建築家という職業があることはぜんぜん知りませんでした。
Matriculation into a university
建築学科へ
高校生の頃には安藤忠雄さんが一般記事にも取り上げられるようになっていたこともあり、建築家について認識していました。
ファッションにも興味をもつ年頃だった僕は友人たちと神戸北野町に行くことが ありました。
そこにあったのはローズガーデンやリンズギャラリー、リランズゲートといった 安藤さんの商業建築の初期名作たちでした。
当時の安藤建築の最大の特徴であった自由な外部階段がとても魅力的に感じ られて、また友人が安藤さんの写真集を持っていたのでよくいっしょに眺めてい ました。
ですから大学の学科選択は自然な流れで建築学科にしたように思います。
結局安藤さんに憧れながら入学したのは神戸大学の建築学科でした。
そこで出会ったのが毛綱毅曠でした。
大学の建築学科には卒業生のなかにその大学を代表する建築家が存在するのですが、神戸大学ではそれが毛綱毅曠でした。
すでに毛綱は東京に所員を多数かかえるアトリエを構えており、後々僕はこの毛綱のもとで修行をすることになります。
Part-time job
発掘調査の日々
ゼミは多淵敏樹教授の建築史ゼミを選びました。
教授に誘われて大学2回生から兵庫県龍野市の寄井遺跡(主に弥生時代中期集落)の発掘調査に参加し、卒業まで長期の休暇はほとんど発掘現場にいるような生活をしていました。
発掘自体も嫌いではありませんでしたが、長く続けた理由は主にお金です。
たしか食事と宿泊を別にして1日1万円もらえたと思います。
発掘現場は町から離れていたのでお金を使う場所もなく、割りの良いアルバイトでした。
教授や発掘団長の指導のもと出土した弥生土器を復元しながらその測量図を作成したり、建物跡を発掘したりしていました。
初めはひとつの色にしか見えない土の断面も慣れてくると何色にも別れた層に見えてくるのですから驚きです。
Graduate school days
大学院時代
大学院では自費で1ヶ月程度の海外の建築旅行を行うというのが通例となっていました。
ヨーロッパを中心とする友人がほとんどでしたが、僕は中国を計画しました。
窰洞(ヤオトン)と呼ばれる下沈式地下住居をどうしても見たかったのです。
下沈式窰洞は中国の乾燥した地域でつくられていた風土建築で、地面に正形の竪穴を掘りそこから東西南北に横穴の形で部屋を掘る、土だけでできた住宅です。
バーナード・ルドルフスキーの名著「建築家なしの建築」でその存在を知ったのですがすでに中国では破壊されることが多いと聞き、いま見ないと永遠に見られないと思ったのです。(ちなみに現在では観光用に窰洞が復元されることも多く簡単に見られるそうです)
西安の郊外で見ることができた窰洞は本で読んだとおりで、真夏でしたがとても涼しかったのを覚えています。(すべて地下なので真冬の暖かさも容易に想像できます)
いまなら環境建築とも呼ばれるでしょう。
また建築史ゼミでは毎年国内の建築旅行をゼミ生と教官全員で行うことになっていました。
どこに行ってなにを見るかはゼミ生に任されるのですが、各回少なくとも1 ヶ所は毛綱建築が入っていました。
毛綱も同じ建築史ゼミの出身で、偉大な先輩への敬意を込めてということだったかもしれませんが、どの建物も先輩たちが絶賛したのをよく覚えています。
特に長野県のアンフォルメル中川村美術館は大絶賛でした。
当時僕はそこまでよくわからなかったのですがそんな僕が毛綱の門を叩くというのはおもしろいものです。
当時神戸大学はアトリエ系より組織設計事務所やゼネコンへの就職のほうが多く、実は僕も組織設計事務所へ内定していましたが、そのときに起きたのが阪神淡路大震災でした。
人生観が変わるということではないのですが大きな組織で働くことに対して疑問ができてしまい、たいへん生意気ではありましたが内定をお断りし、毛綱毅曠建築事務所を訪ねました。
初めて吉祥寺の事務所で会ったとき毛綱は「なんで安藤じゃなくて俺なんや?」と聞いてきたのですがまたもや生意気にも「先生の建築は物語だと思う、その物語をいっしょにつくってみたい」と答えました。
結局、単純に後輩だからだと思いますが無事に入所を許可されました。
Moduna Office
毛綱事務所
毛綱事務所ではコンペや基本設計を多く担当させてもらいました。
造形力や色彩感覚において天才であった毛綱の手から筆(毛綱は通常筆ペンを使ってエスキスします)が走る瞬間を見るのはとても刺激的でした。
ただ筆ペンは太い筆幅をもっているのでそのなかから正しい線を導きだすのには苦労しました。
なかなか正しい線を出せずに「センスがわるい!」とひどく叱られたものです。
また毛綱は他の建築家に比べて色彩が豊かでしたが、調子に乗って色をつけすぎるとこれまた叱られるのです。
結局造形も色彩もセンスのよいギリギリのラインを狙ってそこを逸脱するな、ということを徹底して仕込まれたように思います。
建築家で設計をプランのみから始める人はいないと思うのですが、特に毛綱は外観や配置計画の重要度がより高かったようです。
これはいまでもすごく影響を受けていて、ドイツの家の設計でもプランと断面計画と外観を必ず同時進行で考えています。
またファサードが美しいのは当然として、それ以外の面もたとえ人目につかないとしても、内部空間にただ従っただけの表現は嫌いました。
すべての図面が美しいこと、これは確かに毛綱から教えられたことだったと思います。
German House
ドイツの家
残念なことに毛綱は60歳を前に早逝してしまいました。
紆余曲折の末、現在はドイツの家を設計しています。
ドイツの家の設計が魅力的に思えたのはアルミサッシやアルミ樹脂複合サッシを使う必要がなかったことです。
もともとアルミがとても嫌いで、また毛綱事務所で既製のアルミサッシを使う場面はほとんどありませんでした。
どうしてもアルミサッシが受け入れられず、毛綱事務所を卒業したあとの僕の設計ではほとんどが木製建具(木製サッシではなく昔ながらの木建です)でした。
しかし温熱への意識の高まりにつれて木建ではどうしようもなく、そんなときに知ったのがドイツの窓だったのです。
性能は当然のこととして、ドイツの窓はアルミサッシや他の国産樹脂サッシと比べてずっと重く堅牢で、なにより美しい窓でした。
アルミサッシをお使いのご家庭でそのサッシの美しさを日々実感するなんてことはないと思いますが、ドイツの家のオーナー様たちはその窓の美しさに惚れこみ、大切にお使いいただいています。
そんな窓をいつも使って設計できるならと思って入社し、いまに至ります。