ロングテーブルということー鹿の子分譲住宅トリセツ3

ドイツの家ではロングテーブルと呼ぶ家具があります。
大きなダイニングテーブルのことです。
どれくらいからが「大きな」といえるのかはとくに規定していませんが、おおよそ2メートル以上からかと思っています。
そしてこのロングテーブルは単なる家具の寸法の話ではなく「住まいの思想を一枚の板に凝縮する行為」だと捉えていて、ドイツの家が考える住まい方のたいせつな話題なのですこし深掘りした内容でお話ししたいと思います。

ドイツの家ではロングテーブルに7つの意味を持たせています。

1. リビング中心主義からの脱却

かつて住宅の設計はリビングを中心に考えていたことは否定しません。
しかしそれほど広くはない住宅の場合、リビング=TVを観るソファの配置にすぎません。
最近は若い住まい手を中心として、比喩的ではなくTVを観ない層が増えてきており、ソファの意 味合いが変わっていることを実感しています。
生活の重心がソファからダイニングテーブルへと移っているように感じます。
食事だけではなく、仕事や勉強、打ち合わせや来客対応まで受けとめる「建築の核」としてのテー ブルです。

2. 生活行為の重なりを肯定する

ロングテーブルでは行為の同時進行を前提にしています。
たとえば子どもが宿題をする、親が仕事をする、だれかがコーヒーを飲む、来客が打ち合わせを する、これらが線で分断されずに一枚の面で共存しているという風景です。
「機能分離型」ではなく「機能重層型」といえます。

3. 距離感を設計する

ロングテーブルは「近すぎない」「遠すぎない」「自分の居場所をもつ」という距離感をつくり ます。
特に効果的なのは対面ではなく、横並びあるいは斜め向かいによる距離感の選択です。
これはロングテーブルのサイズが生み出す特性です。

4. 固定的インフラとしての家具

ロングテーブルはもはや買い替えを前提とした家具ではなく、建築と同時に計画されるべき設備 といえます。
構造との一体化から始まり、床・天井・照明・キッチンなどと連動し、配線や収納、空調までを 組み込むことができる「住まいのインフラ」となります。

5. 余白を削らない

ロングテーブルは無駄を削る合理主義ではなく、滞在のための余白を最大化する設計に他なりません。
つまり用事が済むと人が散るのではなく、目的がなくても人が滞留する「滞在装置」なのです。

6. 見せる生活ではなく積層する生活

ロングテーブルでは常に書類、食器、本、PCや子どもの作品などが混在しています。
これはモデルハウス的な「片づいた暮らし」ではなく、時間が積層された「生きている風景」を 肯定することでもあります。
それは美しさの定義が「整っていること」から「使われつづけること」へと転換することを意味 します。

7. 建築思想との接続

7-1 食寝分離との関係

日本の近代住宅を建築思想から見た場合、その大前提は50年代の「食寝分離」にあります。
もともと日本の伝統的住まいは「ちゃぶ台を出して食べる」「ちゃぶ台を片づけて寝る」という空間の用途を時間帯で変える「多目的型」でした。
これは空間を分離するのではなく「時間」と「設え(しつらえ)」で使いわける住宅観です。
それが生活の西洋化に伴う「近代的で衛生的な住宅」への希求のなかで「食べる(ダイニング)」「寝る(ベッドルーム)」「くつろぐ(リビング)」といった行為ごとの空間の分化、つまり「食寝分離」が進みます。
これは衛生思想やプライバシーへの配慮、家事の合理化など、極めて合理主義的な住宅思想を獲得する過程です。
その一方で失われたものも少なくはありませんでした。
「なんとなくいっしょにいる時間」「用事なく居続けられる場所」「生活行為が混ざり合う曖昧さ」などが失われ、「別の部屋で別々の時間をすごす」ことがあたりまえになるのです。

この食寝分離からロングテーブルをみると以下のようなことがいえます。
食と仕事と学びと団らんをもう一度で同じ面の上に重ねていく試みであること、「寝る」と「起きている」はきちんと分離したうえで「寝る」以外をひとつの場所に戻す現代型多目的空間であること、近代以前の「非食寝分離」と近代の「機能分化」の中間に位置する新しい住居のカタチであること。
つまり食寝分離によって分断された「起きている時間」を一枚のテーブルの上でもう一度統合する設計思想といえます。

7-2 個室群住居との関係

個室群住居とは建築家 黒沢隆が提示した「家族中心型住宅」を根本から問い直した住居モデルです。
食寝分離を果たした日本の住宅は高度経済成長とともに核家族化が進み、LDKを中心に家族が集い、そこから個室が派生するという流れに標準化されました。
家族はひとつの強い共同体として想定され、その共有空間がつねに住宅の中心としてとらえられていたのですが、70年代以降、価値観や家族関係の個人化が進む中で、「家族が常に同じ時間を共有する」という前提そのものが現実と乖離し始めます。
黒沢さんはこの状況を踏まえ、家族という枠組みを住宅の出発点とすること自体を疑い、住居の最小単位を「個室=個人」に置き換えるという転換を行います。
個室群住居においては、各個室はそれぞれが完結した生活の拠点として成立し、共有空間は必然でも中心でもありません。
それはあくまで、個人が「行きたいときにだけ行く場所」として、後から付与されるにすぎない。
この住宅モデルでは、家族は自立した個人同士が、必要に応じて一時的につながる関係として設定されているのです。
この思想は、近代住宅が築き上げてきた「食寝分離」「公私分離」「機能分化」といった合理主義をさらに押し進め、ついには「家族」という制度そのものを建築から切り離すところまで到達した、きわめてラディカルな住居観でした。
つまり個室群住居はそれまでの住宅が目指していた「いかに家族を一緒にするか」から「いかに一緒にいなくても成立するか」「いかに孤立せずに別々でいられるか」を構造化した住宅です。

私たちは個室群住居とロングテーブルとのあいだにいくつかの共通点を見いだしています。
ひとつは「個人を前提にしている」という点です。
ロングテーブルも「家族が常に集まる」「全員が同時に食事を取る」ことを前提に置いていません。
誰かは仕事、誰かは食事、誰かは勉強、誰かはコーヒー、つまり「同席はしているが、同一行為ではない」状態を許容する点で、ロングテーブルは個室群住居と同じく、共同体ではなく「複数の個人」から住宅を組み立てています。
もうひとつは「共有は強制ではなく選択である」という点です。
個室群住居では、共有空間は「行きたいときだけ行く場所」ですが、ロングテーブルも同様に個人は自室や書斎、ソファへ引いていける、にも関わらず「なんとなく集まってしまう」のです。
つまりどちらも、「集める建築」ではなく「集まってしまう建築」という構造を持ちます。
また「機能ではなく関係性を設計する」という点でも共通しています。
従来の住宅ではここは食べる場所、ここは寝る場所、ここはくつろぐ場所という行為ベースの機能設計でした。
一方で、個室群住居では人と人がどう距離をとるか、ロングテーブルでは人と人がどう並び、どう視線を交わすかを設計します。
これは機能設計から関係設計への転換を共有しています。

一方で個室群住居とロングテーブルには明確な違いも存在します。
個室群住居は分離を起点としているのに対してロングテーブルは共有を核としています。
また個室群住居は個室が主、共有は従であるのに対してロングテーブルはテーブルが主、個室は従です。
個室群住居は分断への応答ですが、ロングテーブルは再統合への応答です。
この違いを統合したときにひとつの現代住宅の到達点が見えてきます。
自立した「個室の集合体」の中にただ一つだけ、誰のものでもあり、誰のものでもない「巨大な共有面」が埋め込まれている住宅。
個室は完全に自由だが、しかし孤立はしない。
なぜなら中央に、行為を要求しない「滞在の場としてのロングテーブル」があるから。
これは黒沢さんの「分離のラディカリズム」とロングテーブルの「共有のやさしさ」が合成された、 ポスト個室群住居の住居原型だと考えます。

7-3 舗設(設え/しつらえ)との関係

もうひとつ関連づけておきたいのが建築家清家清の「舗設」の考えです。
設え(しつらえ)と呼ばれることが多い清家さんの特に住宅における中心的思想です。
簡単に説明します。
この場所でつい何かをしてしまう状態をつくること、です。
部屋の名前や用途を先に決めるのではなく、どこに座りたくなるか、どこで手が止まるか、どこに物を置いてしまうかといった人のふるまいが自然に生まれる条件を、住宅で用意することを指します。
清家さんによると、低い天井と柔らかい光があれば人は長く座る、窓際の段差があれば人は腰掛ける、ちょうどいい高さの台があれば物を広げる。
空間のつくり方が行動を決めるので、設えとは家具だけでもない、間取りだけでもない、住宅と暮らしのあいだにある「仕掛け」です。
「ここで勉強しましょう」「ここでくつろぎましょう」と指示される空間ではなく、「気づいたらそうしている」空間をつくること。
そして子どもの成長、仕事の仕方、家族の人数、そうした変化を否定せずに受け止める余白のことでもあります。
その意味で家は建てた瞬間が完成ではありません。
住む人が使い、物を置き、癖がついて、暮らしの痕跡が重なっていくことで完成していく。
設えとは、その「育ち方」をあらかじめ用意する考え方です。

ロングテーブルとの共通点は明らかだと思います。
ロングテーブルは「食卓です」と決めつけない、「家族はここに集まる」と強制しない、けれどつい物を広げてしまう、つい座ってしまう、気づいたら誰かと同じ面にいる、という状態をつくります。
これはまさに清家さんの言う「設え」そのものです。

さあ、そろそろまとめたいと思います。
ドイツの家のロングテーブルは黒沢隆の「分離の構造論」と清家清の「設えの行為論」を統合し、現代的に更新したモデルとして考えたものです。
つまり黒沢さんが提示した「集まらなくても成立する住宅構造」と、清家さんが追求した「関係が起きてしまう設え」を、この一枚のテーブルにおいて重ね合わせる試みなのです。
それは「家族をどうつくるか」ではなく、「関係がどう変わっても住宅が壊れない条件とは何か」を問い直したものです。
また「家族を前提にして空間をつくる」のではなく、「空間から家族が立ち上がってしまう条件」をつくろうとしています。
つまりロングテーブルという単純な要素を通して、家族を前提としないにもかかわらず、なお関係性が発生してしまう住宅の条件を、空間として再定義する試みなのです。