たたずむということ

先月書いたエセーを読み返してみて、ふと思った。
民家で書いた「たたずむ」と天井高について、です。
エセーでは民家でたたずむのはほとんど縁側だという話をし、天井高では建築家の設計はなんやかんやけっきょく天井は高い、ドイツの家の天井も高いという話をしました。

大学の研究者というのはほんとうに多種多様な研究をされているのだなあと思うのですが、「たたずむ」を研究されている方がいます。
近畿大学の鈴木毅教授です。
正確には教授が研究されているのは「居方(いかた)」で、それは「人がその場所にどう居られるか」「その時、周囲にどういう関係が生まれるか」を表す言葉で「たたずむ」はそのひとつのタイプだということです。
そのほかには「思い思い」や「居合わせる」などがあるそうです。
これらの「人が居る状態を表す言葉」から新しい街づくりの言わば「脚本」をつくることを提示されています。

教授によると「たたずむ」というのは「立っているその人の全身が第三者から見えること、漠然と遠景を眺めていること」がその必要条件だそうです。
そうすると民家の縁側はたたずむ、ではない(縁側から外を眺めるときは座りますね)のかとも思いましたが、座る前にしばらくたちどまり外を眺める、のでたたずむ。
もともと教授の研究は、日本の都市は個々の建築や施設は立派だが「場所」としては貧しいという問題意識から始まったらしく、諸外国に比べて日本の街には、様々な属性の個人が思い思いに居られる場所は圧倒的に少ないとのこと。
同時に教授は研究の対象は都市の公共空間だが、実は住宅についても同様な問題があると指摘しています。

たとえば「家族が思い思いに居られるリビング」がどれくらいあるのか。

この話しを聞いたときドイツの家の大きな窓と高い天井、それに広いリビングを思いました。
そういえば柏尾台モデルハウスを見学に来られたお客様はみなさん2階の大型単窓のFIXのまえでたたずみます。
その窓から見える景色が素晴らしいのは確かです。
でもその様子は「景色を眺めている」というよりもまさに「たたずむ」という表現がぴったりなのです。

教授の「たたずむ」の定義に「全身が見える」とありますが、たたずむ側から見ると「全身で景色と向き合う」ということになり、それを保証するのが窓の大きさなのだと思います。
同時に高い天井とのプロポーションがその感覚をより深めていると考えます。

そういえばみなさんがたたずむ大きなFIX窓は吹抜けの階段を上がって正面にあるのですが、その横にはその窓よりさらに大きな連窓があります。
ところがその連窓の前ではみなさんたたずみません。
たたずむのはかならず単窓FIXの前です。

これはおそらく「風景の切り取り」そして「FIXということ」が関係しているのだと思います。
横の連窓は大きいけれど機能上FIXとドレーキップが混ざり合っていて、さらにその先にアウトドアリビング(ベランダ)があることで、「切り取り」の純度が下がっているのだと思います。
またFIXが「見ること」に対してもっとも純度が高いということもあると考えます。
これは設計時予想していなかったおもしろい現象です。

また教授が指摘するリビングでの「思い思い」な過ごし方についても触れておきます。
僕はいわゆる間取りのセカンドオピニオンといわれるサイト(工務店などから提案されたプランを第三者の視点で有料で修正する)を見ることがあり「なるほど」と思うのですが、そういうプランをやるかと言われればやらない。
あれはつまりは「家事動線と収納」問題を解決するものでもちろんそこで迷子になっている人にはとても有用だと思いますが、パブリックな空間(LDKなど)の使い方は画一的で無駄がない様子です。(そもそも家事動線や収納は無駄を省くことでした)

前のエセーでも取り上げた篠原一男の「住宅論」では「すまいは広ければ広いほどよい」として「生活のコアとなる無駄な空間をつくること」の重要性が語られていて、僕もそう思っています。

とにかくパブリックな空間を広くとりたい、コストなどの制限があるのならプライベートな空間(個室)を小さくしてでもかまわない。

その結果パブリックな空間に漠とした「間」のスペースが生まれることとなります。
この「間」を僕は大切だと思っていて、これが教授の言い方だと「思い思い」の空間だと考えます。

いずれにしても見晴らしのよい家はたくさんあるでしょうが、たたずめる家というのはそうはないと思うのです。

ドイツの家は自然と一体化することが最終的な目標だと言ってきましたが、「たたずむ」を新たな言語として加えたいと思ったのです。