ロングテーブルということ2 ー 鹿の子分譲住宅トリセツ3付記
16では「家族」の話に着地して終えましたが、すこし子ども室について付記してみたいと思います。
清家清の「設え」としてのロングテーブルと黒沢隆の「個室群住居」的子ども室との関わりについてです。
じっさいの設計の現場で「個室群住居」を意識したときに、一般的な設計ともっとも違うのはおそらく子ども室だと思います。
一般的な子ども室は「睡眠の場」であり「学習の場」であり、なにより「しつけや管理の単位」として設定されます。
ここでは子どもは「保護され、育成され、管理される未成熟な存在」として空間化されています。
一方で「個室群住居」における子ども室は、寝るための部屋ではなく、成長のプロセスを内包した「一人の生活者としての拠点」として構想されています。
子どもは「将来の大人」ではなく、「すでに今ここに存在する一人の生活主体である」と規定されています。
つまり子ども室は、親に管理される寝床ではなく、親子の生活動線の外側に置かれ、夜だけ使われる「寝る箱」ではなく、昼間の生活・思考・遊び・籠りが完結する空間、として設計されるのです。
「個室群住居」では、「子ども=独立した居住者」という前提が、建築によって先取りされており、ここに、近代家族が前提としてきた「親と子」「保護と被保護」「管理と被管理」という非対等な関係性を、空間から無効化しようとする強い意志が見えます。
そもそも「個室群住居」では子ども室(に限らずすべての個室)を寝室だとは捉えません。
近代住宅の子ども室は、夜は「寝かされる」、昼は「勉強させられる」という教育装置でしたが、「個室群住居」の子ども室は、夜はそこで眠る必要すらなく、昼の滞在こそが主機能という構成をとります。
ここで子どもは、管理される存在ではなく、自分の時間を編集する存在として扱われています。
この子ども室の考えを「設え」としてのロングテーブルと絡めてみたいのです。
つまり子ども室を「主体の拠点」、ロングテーブルを「行為誘発の設え」と整理すると、子ども室に関して次の転回が生まれます。
従来の住宅では子どもは「寝る → 勉強する → リビングに出てくる」という管理された動線を辿るのに対して、ロングテーブルのある家における子どもは、自分の個室(主体の拠点)とロングテーブル(行為の交差面)を自由なリズムで往復する。
このとき子どもは、親に「呼び出されて」共有に参加するのではなく、自分の意志で「接触してしまう」存在になります。
つまり「個室群住居」が空間的に保証しようとした「子どもの主体性」が、ロングテーブルという「設え」によって関係性の中で発露する構造へと更新されます。
ここでロングテーブルは、親の管理装置でも、子どものための学習台でもなく、「主体同士が交差してしまう中立面」として機能します。
これは「子どもを自立させる住宅」から、「子どもが自立してしまう関係装置のある住宅」へのアップデートだと考えているのです。
もう一歩踏み込んで子ども室を不登校や引きこもりの空間モデルとして読み替えてみたいと思います。
これは不登校・引きこもりを「問題行動」ではなく「居住の形態」として再定義する試みです。
従来の住宅の論理では、不登校を学校に「行かない」、引きこもりを社会に「出てこない」、というように、外部への不参加=欠如として理解されてきました。
その前提にあるのは、人は本来「外へ向かって開かれるべき存在である」という近代的人間観です。
しかし「個室群住居」は、この前提自体を空間から裏切ります。
個室はもともと、外へ出るための待機場所ではなく、共同体に戻るための準備室でもなく、それ自体で完結した「生活の正当な場」として与えられています。
この視点に立てば、不登校や引きこもりとは「社会から退いた状態」ではなく、「接触の強度を自ら調整している居住の一形態」として読み替えられます。
つまり彼らは「止まっている」のではなく、接続のスイッチを自分で切っている主体として理解されるのです。
一般的な住宅では、居場所は「リビングに出てきているか/いないか」で評価され、子ども室は「閉じこもりの兆候」として疑われ、共有空間に出てこないこと自体が問題化されます。
ここでは空間構成そのものが、「共有に出てこない=異常」という価値判断を内蔵した管理装置として機能しています。
この構造の中で不登校や引きこもりは、心理の問題である前に、すでに空間的に排除された存在になっています。
「個室群住居」は、この価値構造を根底から反転させ、出てこないことは許されない、ではなく、出てこなくても「正しい居住」であるという前提が、最初から空間に埋め込まれています。
ここでロングテーブルを「設え」として重ねると、不登校・引きこもりの空間モデルはさらに更新されます。
重要なのは、このテーブルが会話を目的とせず、教育や治療の装置でもなく、「参加しなさい」と要請しない、という点です。
ここで起きるのは、社会復帰やコミュニケーションの回復、家族への再統合ではなく、ただ「同じ面に、同時に、異なる存在がいてしまう」という状態です。
引きこもりの当事者にとってこれは、「話さなければならない場」ではなく、「役割を演じなくていい場」であり、「回復しなくてもよい接触の可能性」をもつ、条件になります。
これは「治す建築」ではなく、「関係が生まれてしまうことを、あらかじめ拒絶しない建築」だと言えます。
この「空間の読み替え」は不登校・引きこもりを心理の問題ではなく、居住の問題として建築に引き受けているのですが、当然のことながら心理の問題が不要と言っているわけではないことを付け加えておきます。
