家相ということ
10で風水はカタチが関わり、家相は方位が関わるとし、ドイツの家の思想はテクノロジーとしての風水とよく似ているという話をしましたが、風水が気になるとおっしゃる方のほとんどが実際は家相を気にされているので、家相の話をしてみたい。
先に結論めくと、風水が自然に対するテクノロジーだとすると家相は暮らしに対するテクノロジーだと考えます。
ただテクノロジーに対する姿勢が少しちがっていて、風水は「こうしたほうがよい」というのに対して家相は「こうしてはいけない」という禁忌がつよい。
また風水は対自然なのでつねに最新であるのに対して、家相は暮らしのアップデートやテクノロジーにより解決済みとなることがあること、さらに風水のテクノロジーは芸術的な側面を持ち明確な正解をもたないのに対して、家相は禁忌という性格上正解を求めるがその根拠がかなり不明確であるという点は指摘してよいかと思います。
例えば方位を設定するときの中心はそもそもどうやって求めるのか、それを図心と考えるとして建物全体はどこまで含めるべきか、中心近辺の方位の判断がつかない場合はどうするのか、方位の基本となる北は磁北なのか真北なのかまたその根拠はなにか、など数々の疑問点があります。
特に僕が疑問に感じるのは中心(図心)の求め方で、よく言われる「張り・欠け」を一定の条件下で無視するというものです。
少なくとも建築に関わる人なら簡単に計算できることなのになぜ無視するのか、どうにも釈然としません。
けっきょく正解を求める以上、根拠が薄かったり人によって異なったりするのは困るのです。
どうしたらいいのか。
僕は各々各人が信頼できると思う家相観の人物を決めることだと思います。
できればその人物とは実際にやりとりできる関係であることが望ましいのだけれど。
僕の場合は清家清です。
清家さんは東京工業大学の教授であり建築家でもありましたが、その清家さんが69年に書かれたのが「家相の科学」です。
清家さんはその本のなかで家相を3種類に分けて考えています。
建築計画学的、工学的あるいは住居学的に根拠のあるもの、社会的なタブーを表したもの、科学的にまったく説明しようがないもの、の3種類です。
そのうえで建築的に根拠のあるものと社会的なタブーを選んだのが「家相の科学」です。
よく知られる禁忌について以下のように説明されています。
-台所が南西(裏鬼門)にあるのは大凶-
裏鬼門にある食べ物は腐りやすいこと、卓越風により調理の煙や匂いが家じゅうにまわること、火のつきやすい台所から卓越風ですぐに家全体に燃えひろがること。
-浴室が北東(鬼門)、南西(裏鬼門)にあるのは大凶-
鬼門の浴室は寒いこと、乾燥しないこと、鬼門裏鬼門とも飛び火がまわりやすいこと。
-便所が北、北東(鬼門)、南西(裏鬼門)にあるのは大凶-
便所に吉相の方位はない、寒い北は健康上衛生上不適、鬼門裏鬼門は不浄を嫌うこと。
-玄関と表門が一直線なのは凶-
開放的な日本の住宅の玄関は厳重ではないこと、訪問者の心の準備を整えること。
-階段が家の中心にあるのは凶-
家を真ん中から半分に分かれてしまうこと、家の一体感が損なわれること。
「家相の科学」には100項目の吉凶が挙げられているので興味のある方はお読みになられるとよいと思いますが、よく言われる玄関と鬼門裏鬼門の位置については記述がありません。
清家さんが知らないはずはないので、「科学的にまったく説明しようがないもの」として外したのかもしれません。
あるいは清家さんは大学教授なので各項目の吉凶の出典を江戸時代の文献からすべてきちんと示しておられるのですが、もしかしたら玄関と鬼門裏鬼門の関係について書かれた文献は存在しないのかもしれません。(なぜか00年の改訂版にはテキストは示されているけれどもその文献名は示されなくなっています、理由はわかりません)
僕は風水や家相についてなんらかの主張をするときにはその意見が個人的な思いつきなのか出典があるのかの明示はするべきだと思います。
「家相の科学」に書いてあることは設計をしている人間からすると案外あたりまえのことばかりのような気がしてきて、そしてそれが本来の家相であるとも思えてきます。
方位を細かく分けて、そのなかにそれぞれ禁忌を当てはめていくのは少し無理筋ではないかと思うのです。
鬼門裏鬼門というのはたしかに外夷の歴史もあったのでしょうが、主には風の道と考えたい。
であるとすれば、建物の中心も鬼門裏鬼門の方位もあまり細かく設定する必要はないかなと思えてきます。
だって風は計算通りには吹いてくれないのですから。
ちなみに家相の禁忌のほとんどは現代のテクノロジーで解決済みなので、家相はまったく気にする必要がないという考えもありますし、僕も技術者としてはそう思います。
しかし建築は技術だけではなく人文学としての側面も強くもっている以上、たとえテクノロジーで解決できていたとしても旧弊として消し去ることはできない、と同時に僕は清家さんと同じ考えなのでそこから「科学的にまったく説明しようがない」ものはできるだけ排除したい。
特に「災いあり」のような表現はいけない、吉凶はよいよくないと言っているにすぎないけれど災いは呪いになるし、さらに悪いのは「そうでなかったことの証明」ができない。
けっきょく家相の禁忌に対してはテクノロジーで解決しているという認識を持ちつつ人文学的な態度で接するというのがよいと思います。
「恐れずに楽しむ」ということです。